※「構成的規則と規制的規則」の節に追記しました(8/23~)
前エントリでは「ルールとやりとりする」は通常のゲーム的実践を指す記述ではないのではないか、という私の意見を書きました。今回は前エントリの議論も受けつつ、ビデオゲームの規範について現時点での考えをメモしておこうと思います。
前回以上にまとまりのない、文字通りのメモになっております(^^;)
先に私の意見をまとめておきます:
- ビデオゲームににおいては、プレイヤーの側にあまり規範は求められない一方で、製作者の側には「ゲームの挙動 と ルール上可能なこと を一致させなくてはならない」という規範が成り立っているのではないか
■ビデオゲームに規範はあるのか
松永氏の明快なエントリから議論を始めたいと思います。
アナログゲームにおいては、ある行為をゲームルールに則ったものにするためにプレイヤーがルールに積極的に従う必要がある(規範がある)一方、ビデオゲームにおいては、そもそもルール上可能な行為しかできないので、プレイヤーがルールに積極的に従う必要がない(規範がない)、という議論です。
さて前エントリで確認したように、ビデオゲームにおいても、プレイヤーがルールを利用しながら、行為や要素を理解可能にしてゆく、ということはあるのでした。そうでなけれうまくゲームを進行できないだろうし、そもそもゲーム体験が意味あるものにならないと思われます。
このような行為の理解とルールの関係を規範的と呼ぶことがあります。例としてバグを挙げましょう。『スーパーマリオブラザーズ(SMB)』をプレイする際、プレイヤーは「マリオは壁の中を歩けない」というルールを理解しています。ところがバグによってマリオが壁の中を進めてしまったとします*1 その時プレイヤーは「マリオは壁の中を歩くことができる」というふうにルールの理解を変更したりせず、対象の方をルールからの逸脱として理解するでしょう。
ルールが対象に当てはまらなくても修正されず、逆に対象の方が逸脱とみなされるという意味で、行為の理解とルールの関係は規範的といえます。そうした意味での規範性は当然ビデオゲームでも成り立っています。
上記エントリでいわれているのはまた違った規範です。ざっくりいうならば、「ルールにもとづいて行為や要素を理解するための規範」と「ルールにおける選択構造を実現するための規範」があり、ビデオゲームにおいては前者は(たいてい)必要だが後者は必要ない、ということでしょうか。
■構成的規則と規制的規則
ここから先は私の思いつきになりますが、アナログゲームとビデオゲームの違いは、サールのいう構成的規則/規制的規則が関わっているのではないでしょうか。
参考:
構成的規則は、行為の理解と規則が切り離せない(=規則に従わないとその行為だとみなされない)もので、「X は Y とみなす」という書式で表されます。一方で規制的規則は、行為の理解が規則と切り離せて(=規則に従わなくてもその行為をすることができる)、「XならばYせよ(するな)」という書式で書き表せます。また上記エントリで指摘されているとおり、両者は書き換えられる場合もあります。
アナログゲームもビデオゲームも、先程論じたように構成的規則はふつうに成り立っています。
- (A1)チェスにおいて、ルークは縦横に動く
- (A2)SMBにおいて、ジャンプはAボタンを押す(※追記あり)
また個別の指し手に関しては、規制的規則として表現することもできるでしょう。
- (B1)ルークを動かすならば、縦横に動かさなくてはならない
- (B2)マリオをジャンプさせるならば、Aボタンを押さなくてはならない
ただしさらに書き換えると微妙です。
- (B'1)ルークを動かすならば、斜めに動かしてはいけない
- (B'2)マリオをジャンプさせるならば、上ボタンを押してはならない
一見どちらも成り立っていますが、(B'1)と(B'2)は明らかに異なります。 (B'1)に違反した場合反則となりゲームの参加資格を失いますが、(B'2)に違反してもジャンプという行為には失敗するものの、ゲームの参加資格を失うようなことはありません。
またビデオゲームに対応物がない規制的規則もあります。
- (C1)チェスをプレイするならば、駒を二度動かしてはならない
こうしてみると、「ゲームの参加資格にかかわる規制的規則」が成り立たないのがビデオゲームなのではないか、と思えます。
※追記(8/23~)
元エントリの松永さんよりご返答があり、この節についてご指摘がありました。
(A2)はビデオゲームの構成的規則の例としては間違っており、SMBにおいて「Aボタンを押すこと」が「ジャンプ」としてみなされるのではなく、「Aボタンを押した結果生じるコンピュータの特定の状態変化」が「ジャンプ」としてみなされる、というご指摘です。
まったくその通りだと思いますので、ここに追記します。ご指摘感謝いたします。
例文が間違っていますので、それにつづく議論も説得力を欠いていることでしょう。後日改めてエントリを書きたいと思います。
■規範が働く例
以下、「ルールにおける選択構造を実現するための規範」の方を規範と呼びます。
先程も論じましたが、バグとは製作者が用意したルールから逸脱する現象としましょう*2 したがってバグを利用したプレイは、ビデオゲームにおけるルールに従わない行為だといえると思います。
一人用ビデオゲームにおいては、バグを利用したプレイも楽しみ方のひとつとして許容されており、「バグを利用してプレイしてはならない」という規範は必ずしも成り立っていません。
しかしこれが対戦だとどうでしょう。バグを利用してプレイしたので批判される、ということはありえると思います。またソーシャルゲームでは、バグを利用して著しく有利になった場合、アカウントが削除されることもありえます。
もちろん対戦においてもバグの利用が認められる場合もあると思います。とはいえそれは、「バグを利用可能にするか否か」を、ゲーム外においてプレイヤー間で取り決めをするということであり、ユール本でいう「ルール運用」の話です。
そのような取り決めがなかったとしても、対戦においてバグの利用が不当に感じられるということはありえるでしょう。それはバグの利用がルールに従わない行為だからであり、先述の規範が働いている例なのではないでしょうか。
■規範が置き換わる例
通常バグの存在は作品の評価を下げるし、バグの責任は製作者に帰属されます。あまりにバグが多いビデオゲームは、製作者が批判の対象になります。
ここから考えられるのは、ビデオゲームにおいて製作者には、プレイヤーとは別種の規範――ゲームの挙動と設定上のルールを一致させなくてはならない――が働いているのではないか、ということです。
これはよく考えたらおかしなことです。たいていの場合、バグは製作者の意図しないものだからです*3 にもかかわらず、その責任は製作者に着せられる。
これと類比的なのは、小説における誤字・脱字だと思うんですね。両者の共通点について挙げてみましょう:
- 原則的に作品ないしは作者に帰属される
- できるだけ修正しなくてはならない
- 純粋な間違いとみなされ、通常は読解/評価の対象にはならない(例外:バグを利用した攻略法の普及/テクスト論や精神分析による誤字・脱字の深読み)
- 深刻なものでなければ/数がすくなければ作品の評価から切り離せるが、深刻なものであれば/数が多ければ作品の評価を下げる
- 数が少ないからといって作品の評価が上がるわけではない("上方"硬直性がある)
こうした特徴の多くは作品や作者といったカテゴリーが関与しているように思えます。ビデオゲームにおけるゲームとルールの関係には(とりわけ製作者の側から考えたとき)、古典的ゲームと類比的な側面だけでなく、小説のようなフィクション作品と類比的な側面もあるのではないでしょうか。
■ビデオゲームにおける規範はどこに消えたか?
長くなりましたがまとめたいと思います。ビデオゲームにおいては、プレイヤー側が従わなくてはならない規範はあまり多くはない一方、製作者の側にはプレイヤーのそれとは異なった規範――ゲームの挙動とルール上可能なことを一致させよ――が成り立っているのではないか。この2つは全然違うものですが、歴史的に前者が後者に置き換わった、のかもしれません。
ビデオゲームはゲームの挙動とルール上可能なことを一致させることができるので、ゲームに向いたメディアである、というだけでなくて、そうするべきだという規範が成り立ったメディアでもある、ともいえるかもしれません。